スポーツと平和」についての研究ノート

「スポーツと平和」をめぐる実践的・理論的課題

                      2007.2.11 森川貞夫

〔Ⅰ〕問題の所在

一般にスポーツは平和のシンボルのようにとらえられている。とりわけオリンピック報道ではその感が深い。4年に1回のオリンピック競技大会が開かれるたびに日本のマスコミは、まずオリンピックを「平和と友好の祭典」と表現する。だがその多くはメダル獲得競争過熱化のあおりの中であたかも「一服の清涼剤」のごとく「平和と友好」のエピソードが時に語られるのである。

 この限りにおいて多くの国民も、またスポーツ界の人々も「スポーツと平和」の関係を支持し、時に感動もする。だがひとたび現実の社会的・政治的状況の中で「スポーツと平和」の問題が組みこまれたときにはその対応はしばしば異なるものとなる。

 たとえば、1980年の「モスクワ・オリンピックボイコット」問題の折にはその対応はどうだったであろうか。ソ連のアフガニスタン侵略に抗議してアメリカ・カーター大統領が「モスクワ・オリンピックボイコット」を各国政府に要請した。それまで「スポーツの政治的中立」を主張していたスポーツ界の支配的な人々が実にあっさりと日本政府に同調しボイコットに賛同、ソ連批判に追随した。もちろん、これとはまったく逆の対応もあった(1)

 その後、名古屋オリンピック招致問題の折に表面化したように、これまでオリンピックのあり方に批判的だったグループからは「反オリンピック」運動の展開と「パックス・オリンピック」論の主張が強く打ち出された(2)。先のモスクワオリンピックボイコット問題への日本のマスコミの対応もそれぞれ透し見えたのは、結局は「賛成」「反対」のそれぞれの立場であり、新聞各社の政治性が浮き彫りにされた(3)。同様にスポーツ界の人たちもきわめて「政治」的であった。

 たとえば、モスクワ・オリンピックに参加するかしないかを決める重要な会議において当のスポーツ団体の要職にある者が「体協の行うアマチュアスポーツの振興は、政府の片棒をかついでいる仕事だと考える」と公言し、スポーツ団体が政府に同調するのは「当然」だという、まさに「確信犯」のごとき発言がまかり通るのである(4)。これでも「スポーツは政治と無関係」といえるであろうか。

 

 かつて私は沖縄における「スポーツと平和」をめぐる問題を述べる中で、「スポーツ運動における『スポーツと平和』の問題は、我々の『日常性』『常識』との格闘をふくむという困難さを備えている」(5)と書いた。

 このとき私の気持の中には、日常の各種スポーツ大会における「日の丸」掲揚・「君が代」演奏問題に限らず、スポーツ界の「常識」の感すらある「縦の人間関係」、「しごき」、オリンピック・ボイコット問題、ナショナリズムの過剰な高揚、スポーツにおける体罰・暴力問題等々が生じているにもかかわらず、これが放置・容認され「常態化・日常化」していること、そして何よりも日本のアカデミズムの伝統がこうしたスポーツ問題にまともに取り組もうとしないことへの、私自身のやり場のない不満といらだたしさがあったように思われる。

 それは「たかがスポーツじゃないか、そんなに目くじら立てることもなかろう」という世間一般の「常識」・「日常性」に対する容易ならざる「たたかい」への思いもふくんでいた。だがそれは単に現在自分がスポーツに関係した研究に身を置いているからというだけ

でなく、実はスポーツ文化の大衆性の中にある問題性、あるいは「常識」・「日常性」の中にからめとられていくスマイリング・ファシズム(笑顔のファシズム)、「柔らかいファシズム」(6)への危機に対する警鐘を鳴らすという意図をこめたものであった。しかし同時にそこには私なりの焦燥もあったのは事実であろう。

 だから、「おわりに」で「『スポーツと平和』の問題に自覚的な勢力にとってもスポーツマン・団体の自立を援助し、共に運動を発展させていくための理論的蓄積とそれを実現していくための日常の活動・実践がなければ今日の政治的社会的状況の中では自らの課題解決に対しても困難である」(7)と書いたのである。

 だが今、冷静に考えて見ると、日本のアカデミズムの中にある事実上のスポーツ文化の軽視と、日本の民主主義的運動の実践と理論の伝統に「スポーツと平和」の問題がほとんど視野に入っていないという現状では、私の主張も一方的な問題提起に終わってしまうという程度のものであったにちがいない。

 したがって、本論では1980年代から1990年代にかけての「スポーツと平和」をめぐる論点の若干の整理をしながら、あらためて「スポーツと平和」の問題をとりたてて研究し取り組んでいくときの理論的・実践的課題(その意義とその可能性についても)を示したいと思う(8)。

 

〔Ⅱ〕日本における「スポーツと平和」へのとりくみ

 

 1986年は国連がよびかけた「国際平和年」であった。この年、日本国内における「スポーツと平和」に関連した取り組みを新聞の切り抜きなどで整理してみると以下のようになる。

 

①新体連(新日本体育連盟、1965年創立、現新日本スポーツ連盟)傘下の県連盟を中心とした反核・平和マラソンや駅伝等の開催、反核署名運動のとりくみなど。

②同じく労山(日本勤労者山岳連盟)所属のクラブ等による平和登山、「平和と登山のあり方懇話会」などの活動。

③平和とスポーツ&レクのつどい実行委員会による「第1回平和とスポーツ&レクのつどい」(河口湖)(9)

④ノエル=ベーカー記念「スポーツと平和を語る会」による「スポーツと平和を語るつどい」、並びに広島にノエル=ベーカー記念碑を設置する運動(10)

 これまでにも散発的ではあったが、「スポーツと平和」を結んだ集会やスポーツイベントがあった。また、JOC(日本オリンピック委員会)総会において大島鎌吉(ベルリンオリンピック三段跳三位)・大西鉄之祐(元全日本ラグビー監督・早大教授)両委員による反核署名の訴えが拒否されたということもあった(11)。

 しかし、旧西ドイツにおける国際的な「核ミサイルに反対するスポーツマン、平和のためのスポーツマン」運動の盛り上がりや1985年の「平和のための国際スポーツ祭典」(12カ国・1万5千人参加)の成功ぶりに比べて見たとき、世界初めての被爆国日本としての「スポーツと平和」のとりくみの力はかなり弱いと言わざるをえない(12)。

 国際的な「スポーツと平和」のセミナー(会議)が1986年にワルシャワで開催されたが、日本からも2名が参加している(13)。また、先の旧西ドイツ集会にも私たちは2名の代表を送った。しかしこうしたささやかな取り組みは既成のスポーツ界、とくに日本体育協会・JOCおよびその傘下にある競技団体への影響力はプロ・アマを問わず非常に弱いと言わざるを得ない。それは先に紹介した「平和のための国際スポーツ祭典」にブンデス・リーガーなどトッププロ選手が参加して満員の会場を沸かすという状況、あるいはスポーツマンのロールプレイとして「スポーツマンの知名度や世界的規模での影響力によってIOC憲章の目的のためにつくすことがすべてのスポーツマンの責任であることを確認し、――スポーツマンとして、我われは世界のあらゆる地域で新型核ミサイルおよびその他の大量殺戮兵器の配備ストップを要求する何百万の人たちのアピールを支持する。」(14)という「宣言」を出す力とは比べようもない。

これらの状況からも言えることだが、「スポーツと平和」のとりくみは日本のスポーツの民主的・平和的な発展にとって大きな課題であり、同時に日本における民主主義諸運動にとっても大きな課題であろう。その理由はスポーツが現代日本における社会現象としての比重の大きさと国民的関心の高さに照らし合わせてみれば明らかである。スポーツ(マン)が平和と民主主義の側につくか、それともその反対の側につくかを思い比べてみたとき、スポーツの平和的、民主的発展がいかに重要かは自明のことのように私には思われる。

 

〔Ⅲ〕沖縄国体の残したもの

 

 1987年の沖縄国体は、国体一巡目最後の国体として、また「復帰15周年」「海邦国体」として注目された。しかし、何よりも「日の丸」・「君が代」・天皇来沖問題のとりくみに見られるように、国体民主化運動の最大にして最強の県・沖縄(当時は戦後の沖縄本土復帰運動の成果を受けて反戦・平和運動、労働組合運動、地域教育運動すべての面で本土とはちがうと評価されていた)での国体は、1987年の日本スポーツ界はもちろんのこと、戦後国体史上における「スポーツと平和」をめぐる最大の焦点でもあった。残念ながらこういう認識は、本土における日本の支配的なスポーツ界にはなかった(15)。

 国体終了後、西銘知事は「沖縄の戦後は終わった」と述べたが、県民の反応はそれとは異なっていた。総額1100億円をかけて行われた沖縄国体は、「念願」の天皇・皇后杯を沖縄にもたらし、「一人一役万人が主役」という標語が幅をきかし、すべてが国体優先という状況を前にした県民は「冷静な対応は困難」であったという(16)。

 沖縄国体が終わった後、沖縄県民の間には「世論が二分」されたいくつかの問題を残した。とくに「スポーツと平和」をめぐっていえば、読谷村のソフトボール競技会場における「日の丸焼き捨て事件」がもっともセンセーショナルに報じられたが、「日の丸」「君が代」強制反対運動などが国体(スポーツ)開催・成功のためにという「大義名分」によって「地すべり」的に、あるいは「地ならし」的に押し込められていった(17)。

 それだけに「スポーツと平和」をめぐって真剣に取り組んだところほど、その苦衷・苦悩は大きい。一つの具体例を挙げよう。

 先の読谷村では国体開催の前年に村議会において「『日の丸』掲揚、『君が代』斉唱の押しつけに反対する要請決議」をおこなっていた。「復帰して十四年が過ぎ、いよいよ来年は沖縄海邦国体を迎える年です」にはじまる「決議」文は、「スポーツと平和」の問題をめぐる沖縄の歴史的な基本的課題が表明されていた。

 「私達は四一年前悲惨な戦争を体験し、『ノーモア沖縄』を叫びつつ、平和を希求して、日本国憲法の精神を尊重し、擁護しながら今日の社会をつくり上げて参りました。ところが、県や県教育長は『沖縄の戦後総決算』と称し、学校現場やスポーツ行事などにおいて『日の丸』、『君が代』の押しつけを強行しています。これらの強権的行政命令は、これからの二一世紀を考えるとき、憂慮すべき事態と言わなければなりません。

そもそも、学校における卒業式は生徒にとってこれからの人生に大きな希望をいだきスタートを踏み出す日なのです。又、入学式は新しい校風をうけつぎ、学問を自由に学ぶはじまりなのです。(中略)

将来の主権者にふさわしい人間教育をめざし、生徒を主人公にしたこれまでの自由かっ達な学校行事を行ってこそ、すばらしい人格教育につながり、日本人としての誇りを持つ人づくりにつながると思慮されます。(中略)

学校教育は、児童・生徒にとって一番大切な時期であり、上からの押しつけは思想攻撃につながり、大変危険であることを指摘せざるを得ません。あとひとつは、スポーツ(国体)への政治の介入であります。海邦国体を控えたリハーサル大会において、先催県の例をあげ、『日の丸』、『君が代』の強要を政治的な圧力をかけています。スポーツと教育はいかなる政治の抑圧からも自由でなければなりません。なぜならば、戦争の歴史を振りかえる時、そこにはいつも政治がスポーツと教育を支配し、従属させたところに悲惨な人類の戦争があったことを忘れてはなりません。

 今日、国際社会を標榜するならば、近年のオリンピックやあらゆるスポーツの場で、地球的(世界)立場から世界平和と平等、友愛を求める人類の声として、各国の旗を主とした掲揚方式から徐々に変化している事実を知るべきです。(以下略)」(18)

 そして、「決議」は、「日の丸」「君が代」の押しつけを強要しないよう、県知事・県議会議長・県教育長宛に要請していた(1986年12月20日)。

 さらに山内村長は、国体の開催の年、村議会での1987年度施政方針演説においても「小さい島沖縄は、昔は武器のない平和な島であった。貧しくとも心豊かな守礼の邦であった。大戦の中をやっとの思いで生きぬいてきた人々、戦後生れた若い人々をも含めて沖縄の人々は自由と平和、人権と民主主義を願い反戦平和実現のため四〇年間苦闘してきたのであります」と述べて、「日の丸」「君が代」が果した「歴史的事実を、粉飾もせずに真実を直視し、より人間的に対処していくことが、今必要でありそれが二一世紀の歴史の批判に耐えうる道ではなかろうか」と問うたのであった(19)。

 こうした背景の中、国体直前の1987年10月22日、突然、日本ソフトボール協会弘瀬会長は、県国体事務局を通して、26日の競技開始式に「日の丸」「君が代」を実施しないのであれば会場変更をせざるをえないと村当局に通告してきた。そして、23日来沖、県と村当局に回答を迫った。結果、村長は26日の開始式当日「日の丸」掲揚を認める「合意」を認めざるをえなかった。

 これも「国体成功」のためという苦衷の選択であった。だが「日の丸焼却事件」の後、連日右翼は村に押しかけ、村長や村役場に爆弾脅迫やスーパー放火、さらにチビチリガマの「世代を結ぶ平和の像」の破壊へと及んだ。この間の右翼の執拗な報復攻撃やマスコミ攻勢によって、多くの村民は、計り知れない苦痛・苦悩を味わされたが、同時に多くの県民にも「スポーツと平和」をめぐっては、「国体開催か反戦か」の二者択一を迫るものとして映った(20)。

 こうした苦悩の末、読谷村議会は「日の丸焼却・世代を結ぶ平和の像破壊等民主主義を否定する一切の暴力行為を許さない宣言」を決議し採択した。ここでも国体に対する村民の献身的協力と、民主主義と平和への強い意志を表明していた(21)。

 一方、「スポーツは政治的に無関係」としながら、国体開催基準要項には競技開始式の際の「国旗掲揚」が規定になかったにもかかわらず、「国旗掲揚」を市町村に強要した日本体育協会の立場も「国体(スポーツ)の実施」と「平和」の二者択一をかれらなりに「選択」することになった。

 いずれにしても「スポーツと平和」は二者択一の「選択」でしか存立しえなかったということになる。しかも沖縄国体の場合、「スポーツの政治的中立性」」は、国体(スポーツ)成功という「錦の御旗」によってみごとに退けられ、国体(スポーツ)の政治的利用である「日の丸」「君が代」の押しつけはスポーツの側からは不問にされるどころか、一方的に「政治利用」の道を開いていく露払いの役を担わされていたという自覚も無しに進められていった。しかし残念なことに沖縄国体における「スポーツと平和」をめぐる問題は突出した形で今なお重い課題を残しているにもかかわらず忘却の彼方に追いやられようとしている。

 

〔Ⅳ〕「スポーツと平和」の関係についての歴史認識

 

 先の読谷村議会の「要請決議」が示していたように、「スポーツと平和」をめぐってのスポーツの政治的中立性は、沖縄では「スポーツと教育はいかなる政治の抑圧からも自由でなければなりません」という立場で問われてきた。その理由は「戦争の歴史を振りかえる時、そこにいつも政治がスポーツと教育を支配し、従属させたところに悲惨な人類の戦争があった」からという「歴史認識」に裏づけされたものであった。

 第二次大戦において唯一戦場となった沖縄だからこそ、このような認識に立てるのであるが、それは同時に「沖縄県民の最も不幸な時代」を強いてきた本土の側に対してはこのことへの深い理解とその不幸を共有していくという姿勢が求められるのである。しかし 事実はその後の経過で明らかなように沖縄県民に対する本土側の「理解」や「配慮」はまったく示されることはなかった。

ところでこれまでの国体における競技開始式の「国旗掲揚」は、国体開催基準要項および細則には明記されていなかったのであるから、必然的に共催団体である本土開催地および日本体育協会、文部省の「政治的」判断によって、これまで沖縄の立場とは逆の「選択」によってなされてきたということになる。したがって国体だけではなくこれまで多くのスポーツ大会ではいつ頃か「日の丸」「君が代」が使用されてきたが、沖縄国体を前にして初めて根源的な問いかけがなされたことになる。

ところが日本体育協会国体委員会ではさしたる議論もなく、あっさりと「国旗掲揚」の字句を入れるという形で国体開催基準要項を「改訂」した(22)。「スポーツにはルールがある。これに従うのがスポーツマンの精神だ」ということである。国体開催の形式を規定するルールは確かにスポーツ大会の形式を決める規定であるが、それは文部省の指導の下に政治的に「改訂」されるものであり、競技の進行や勝敗の決まり方などを規定するスポーツ・ルールとはその性格も明らかにちがう。まして、スポーツの大会運営をめぐって「スポーツと平和」のあり方が問われているのであるから、当然、本質論議は避けて通れないはずであるが、千葉久三国体委員長は「そういう問題は議論になじまない」ということで沖縄県民の根源的問いかけを斥けたのであった(琉球新報、1987年12月11日付)。

かくして戦後沖縄の「本土化」はスポーツを通じてかんたんに「本土化」が進められたことになる。すなわち、国体成功の大義名分を掲げる国体事務局および県当局も沖縄県労働組合協議会の「沖縄国体に関する公開質問状」に対してもこれまで本土(先催県)でやってきたのだから、沖縄国体も「本土なみ」でやらざるをえないということで「本土なみ」の内容に追従する回答に終始したのであった(23)。

 日本体育協会国体委員会も沖縄県国体事務局・県当局も言ってみればこれまで日本スポーツ界でつくられてきた「常識」にしたがったまでのことであったにちがいない。

さて、このような日本のスポーツ界の「スポーツと平和」への認識を前にして、あらためて「スポーツと平和」の関係をとらえなおしていかなければならない。

 これまでオリンピックがいくたびか危機に陥った歴史が示しているように、「平和なくしてスポーツなし」である。オリンピック大会が4年に一度、無事開催されるためには、オリンピック運動の現実的基礎である世界平和の維持・発展が必要である。

 戦火の中をかいくぐってオリンピックに参加することはあっても、戦火のなかで世界各国のスポーツマンが集まるオリンピックを開催することは非常に困難である。

 こうした意味ではスポーツがつねに発展し続けるためには世界が平和でなければならない。だがこのことからスポーツが平和に無条件につながっているということにはならない。 たとえば国際的なスポーツ大会における各国スポーツマンの競い合う状況は、非軍事的な手段による競争であり、したがって諸国民の友好と平和共存の一つの「状態」を示しているといえるが、同時に競争=勝敗の競いあいの激化が、かえってナショナリズムを刺激し、各国間の覇権競争に利用される危険性も出てこよう(24)。

 したがって、「スポーツと平和」の関係は第一に、スポーツは平和にも戦争にも役立つことができるが、しかし、スポーツが存在し続けるためには世界平和が維持・発展していかなければならないということである。

 第二に、しかしだからといってスポーツは現実の世界平和を無条件につくりだしているわけではないし、それを保障するものではない。このことからスポーツがいかなる意味で平和に貢献・寄与できるかを厳密に問う必要が出てくる。

 第三に、上と関係するが、スポーツにおける競争が実人生における競争や諸国間の覇権競争に至らしめないための自制力、ないし平和との対概念である戦争や暴力と結びつかないためのスポーツにおける政治性についても十分に検討される必要があろう。

〔Ⅴ〕スポーツにおける政治性

 すでにふれてきたように「スポーツと平和」の関係が、時に「スポーツと政治」との関係において問題になる。たとえば冒頭ふれた1980年のモスクワオリンピック大会の際のアメリカ・カーター大統領のボイコットよびかけは、ソ連のアフガニスタン侵入に対する抗議としてなされた。これには日本はじめいくつかの国々が同調した。

 そのお返しが次の1984年のロサンゼルスオリンピックであった。こちらの方は中国、ルーマニアを除く社会主義諸国であった。こうした一連の動きを見ているとオリンピックが「平和と友好の祭典」というにはあまりにも政治的に無力で、その時々の政治に左右され、「スポーツの政治的中立性」というのは存在しえないように見える。

 本来、スポーツが政治からの「一定の独立」あるいは「自立」を要求される理由は、スポーツがその時々の政治に左右されることなくスポーツの論理でスポーツ事業を進めていこうということであろう。なぜならスポーツをふくめた文化活動一般は、その時々の権力の意向によって価値が決められたり、あるいは活動が禁止されたりしてはその自由な創造的活動が保障されないばかりか、成り立ちえなくなるからである(25)。

 したがって、スポーツへの不当な政治の介入を阻止するためにスポーツの政治的中立性を主張することはあっても、その逆ではないはずである。ところが今日しばしば「スポーツは政治とは無関係」(スポーツは純粋な活動である)という形で実はスポーツによる政治的介入が行なわれる。

 日本では1920年代に進められた、いわゆるスポーツによる「思想善導」政策は、ことさらにスポーツの無思想性を強調し、青年が左翼思想に影響されるのを防ぐために積極的にスポーツの奨励をおこなったが(26)、当時の支配的なスポーツ界の人々は、これに迎合していった。その結果、最終的にはスポーツによる国威発揚、スポーツの軍国主義化に加担し、やがてスポーツそのものが否定され禁止されるという事態の中で敗戦を迎えた。

 こうした戦前の教訓からいえば、「スポーツの政治的中立性」という主張によって、スポーツマンをしばしば政治的に無感覚にさせ、時の権力の思うがままにスポーツあるいはスポーツマンを利用し、スポーツマンを政治の手先にさせたといえるであろう。

 したがって、スポーツ(マン)が政治からの不当な介入を許さず、スポーツの真の発展を期するためには、スポーツの担い手自身の政治性を確立し、ファシズムや軍国主義にではなく、平和と民主主義の味方に立つ必要があろう。「スポーツと平和」の関係でいえば、戦争や暴力を推し進めるものに対して「中立」であることは人間の存在、生命の尊厳を否定するものであり、「中立」ではありえない(27)。

 このことから「スポーツと平和」の関係のきわめて高度な「政治性」が求められてくる。すなわち、スポーツそれ自体は戦争を回避させたり世界の平和を実現する実際的な力はもってはいない。それはあくまでも現実の政治の力がスポーツを上回るのである。だが、スポーツが平和への潜在的な力を発揮することによって世界平和への寄与・貢献は可能である。

 だがここでもう一度「スポーツと平和」に関連して論じておく必要があることがらは、現実の国際政治あるいはパワー・ポリティックスの中にあっていかにしてスポーツが世界平和に貢献しうるかということである。

 その理由はすでにふれてきたことではあるが、オリンピック運動についても「反オリンピック」論があるように、「スポーツと平和」についても懐疑的あるいは否定的な議論があるからである。

 近代オリンピックの創始者クーベルタンはスポーツが平和にも戦争にも奉仕することを認めていた(28)。だが彼はその上で「戦争の機会を減らすことに努力する」ことが大事だというかれの考えをオリンピック原則に適用し、「スポーツを通じて平和な世界の建設に助力する」ことを掲げたのである。このことの今日的意義をあらためて確認することが重要であろう。

 ところでオリンピック運動の「平和主義」が「平和的な社会力」を発揮するにためには、広畑が適切に要約しているように(29)、第一はスポーツ的営為のなかに現出する「非平和」的事象の排除であり、第二は、オリンピック運動にたいする「非平和」的な政治主義の排除であり、第三は、オリンピック運動の理念としての平和思想にもとづく「オリンピック」的選択と創造である。ここでとくに問われているのは第三に関連してであるが、とくに現実の国際政治との関わりでいえば、第二次世界大戦後今日までの国連を初めとするさまざまな非政府機関における世界平和への働きかけ、世界各国の人々によるさまざまな平和のための努力、あるいはいろいろな形態による平和運動の前進にたいして、オリンピック運動をはじめ「スポーツと平和」の運動が孤立してあるのではなく、これらの運動と連帯・連動することによって助長されるであろう「平和」への可能性についてである。

 スポーツを通じて広く人々の心に平和と友好の感情と意識をつくりだしていくこと、これがスポーツによる平和への「可能性」である。たとえば国家間の対立あるいは敵対があったとしても、スポーツの大会に集まったスポーツマンどうしが競技をおこなうことによって、この対立・敵対を緩和し、相互に理解しあうことは可能である。これまでのオリンピック大会やワールドカップ・サッカーなどにおいて「敵対」する国のチーム・選手が競技場で相対することがあった。また東西両ドイツ分裂にもかかわらず統一チームによるオリンピック参加、あるいは南北朝鮮統一チームが実現したこともあった。さらにはかつて「ピンポン外交」という異名をとったが、国交のなかったアメリカと中国との「対話・交流」にスポーツが一役を買わされたこともあった(30)。

 このような事例を考えて見るまでもないが、もし仮りにスポーツマン相互に「高度な政治性」(平和への意識)を発揮し、緊張緩和へ努力し、友情を深めあうことができればそれは世界平和の環境をつくりだすことに貢献するということにつながる。そのためにこれまで「スポーツと平和」へどのような努力が続けられてきたか、また、いかにしてスポーツマンが平和運動に加わり、あるいはスポーツマン独自の平和のとりくみをしたかを掘り起こす作業も必要であろう。

 こうした可能性への追求を通して「スポーツと平和」の関係の新たな発展が生まれてこよう。それらの可能性と若干の方向についてはすでに別のところで論じた(31)ことであるが、若干の整理をしておく必要があろう

 

〔Ⅵ〕おわりに--「スポーツと平和」教育の可能性についての補遺

 

 すでにこれまでの議論で明らかにように、スポーツにおける平和と民主主義の課題は、一人スポーツだけでその責を負えるものではなく、それはどこまでもスポーツをとりまく現実の政治の中で基本的には解決していくものである(32)。

 だが現実にスポーツの中に「政治」を持ちこみ、スポーツを国民の分裂・支配の道具にし、スポーツを歪め、スポーツの自由を侵すものがある以上、それに対抗し、スポーツの自由と国民のスポーツ享受の権利を守り発展させ、同時にスポーツを通じての諸国民の連帯・世界平和に貢献する道を追求していくことが必要である。

 そのための「スポーツと平和」教育の可能性をさしあたり私は次のようにとらえていきたい(33)。

 先ず第一は、スポーツを通じての平和・友好の精神を育むための前提条件として、すべての人のためのスポーツ享受条件の獲得、スポーツ機会の平等の権利が追求される。これはスポーツにおける基本的人権(「権利としてのスポーツ」(34)の追求の課題としても意図的に取り組まれる必要があろう。ここでは当然のことながら「みんなのスポーツ」(スポーツ・フォア・オール)運動のもつ「スポーツと平和」への貢献・寄与が語られるべきである。ここであらためて思い出すことは1978年ユネスコ第20回総会で採択されたユネスコ「体育・スポーツ国際憲章」の積極的な意義であるが、これ以上はふれないでおく(35)。

 第二に、スポーツ場面における民主主義的発展のためにスポーツ組織・集団の運営における民主主義的組織運営・管理能力の育成が必要である。これは学校教育・社会教育の両面からとらえる必要があろう。

 第三は、スポーツ実践あるいはスポーツ活動における非暴力と協同を前提にした競争を可能にし発展させるための民主主義的・平和主義的スポーツ観を育てるためのスポーツ教育が必要である。 

第四は、とりたててスポーツにおける平和と民主主義を教えるための、これまでのスポーツにおける「戦争と平和」の歴史を教育することであろう。これらの具体的な教材についてはさらに充実・発展させる必要があるが、これまでにも若干の指摘・提案をしたことがある(36)。

 第五には、スポーツ愛好者およびすべてのスポーツマンがそれぞれの分野で「スポーツと平和」のための具体的な実践をつみかさねていくことが求められよう。それは同時に世界各国のスポーツマンとの連帯を生むものであり、まさにオリンピック運動がめざすそのものであるが、スポーツを通じての世界平和・友好のための環境をつくりだすために、相互理解・相互尊重、平和運動への接近が求められよう。

 最後に、スポーツを通じていかに平和ととりくむかについて、城丸の教訓的ともいえる方向性について確認しておくことが重要であろう。すなわち、「体育・スポーツを通じて、とりたてて平和と民主主義を教えるということは、平和と民主主義のスローガンをゼッケンに書きこむとか、そういうスローガンで運動会を開くとかということを意味しない。そうではなくて、体育・スポーツが平和と民主主義にどうかかわっているか、また、かかわってきたかについての識見を意図的に育てることである。特に、体育・スポーツは軍国主義者によって保護され育てられるものだとか、体育・スポーツの精神は軍国主義の精神にほかならないとかという迷信を、事実をもって打ち破ることである」(37)。このためにスポーツマンが何をなすべきかについての方向もこれまでの議論の中である程度示されている。

 残された問題は、日本の民主主義の側であるいは伝統的なアカデミズムの側で、社会現象としてのスポーツをありのままにとらえたとき、今日のスポーツ状況がもっている社会的・国民的影響力を率直に認めるなら、スポーツをまともな研究の対象としてとりあげるかどうかである。この点についていえば、たとえば法哲学専門の中村浩爾は、「余暇の問題、従ってそこにおける文化・スポーツの問題にいち早く目をつけ、それに理論的裏付けを与えようとしたのは、皮肉なことに、体制的イデオローグ逹であった」(38)と警告している。

 すでに冒頭で述べたように、スポーツを平和の味方に引き寄せるのか、再び軍国主義あるいはスマイリング・ファシズムの側に追いやるのかの「選択」の問題は、日本の民主主義的発展にとっても大きな課題であろうということを再度強調しておきたい。

 

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注)
1)日本のスポーツ界がどのように対応したかについては、日本体育協会・JOC自身がまとめた『第22回オリンピック競技大会報告書』(昭和56年3月1日発行)の「不参加経緯報告」(44頁~50頁)がある。また、マスコミ・世論等をふくめた全体的な動きについては藤原健固『国際政治とオリンピック』(道和書院、1984)、ボイコット反対の立場から終始一環した取組みを見せた新日本体育連盟の見解等については同連盟事務局発行『オリンピック問題資料集』(1980)がくわしい。なお、池井優「モスクワオリンピック、ボイコットの政治過程」(『慶応義塾創立125年記念論文集法学部政治学関係』所収)には別の分析がなされている。

 民間にあって「モスクワオリンピックボイコット問題」の「訴え」を出した文化人六氏の見解は、とくに重要な内容をふくんでいると思われるので、以下にその全文を紹介しておきたい。

   訴え

  今、日本がモスクワ・オリンピック大会に参加するかどうかが関心の的となっているのは、ご承知の通りです。この際、結論に先立って、あらためて次の諸点を明らかにして置かなければなりません。

  一、スポーツは疑いもなく人間文化のひとつであって、自由かつ自発的な人間的表現であり、これは基本的人権に属するものです。従って、今度の参加問題にあたっても、その結論はこの場合の主体としての民間の代表組織(国際ならびに各国のオリンピック委員会)の自主的な決定にまかすべきです。そしてそれ以外の力に左右されてはならず、政府としても勿論この点を無条件に尊重すべきでした。モスクワ大会については、すでに国際オリンピック委員会がその場所と会期を決定しています。決して特定の国家が主催するのではないということを、思い起しましょう。

  二、もし外部の力の介入に押されてしまうならば、そのような事態は今後も国際スポーツ界全体に及ぶだけではなく、民間団体の文化活動一般も次第に同じ運命をたどりかねないでしょう。オリンピック憲章にもとづくオリンピック大会の本質は、決して学術や芸術の諸分野での国際交流とちがったものではありません。

  三、スポーツと政治とはそれぞれ独自の分野であるが、同時に、オリンピック憲章は国連の世界人権宣言と共通する精神にたって、世界人類の平和と友好という崇高な責務の実現をめざしています。「よきスポ-ツマンシップの気風がもつ倫理的、社会的、知的な価値は第一級の資産であり、----モスクワ大会は暴力と紛争を捨てて、凡ての国民の調和と幸福へうつる転機となり得る」これはイギリスのノエル・ベーカー卿(アントワープ大会メダリスト、ノーベル平和賞受賞者)の言葉です。

  四、たしかに近年のオリンピック大会には国家色が見受けられ、特にわが国では諸外国に比べてそれが著しいように見えます。しかし国際オリンピック委員会は今度の大会を転機としてこの傾向をいましめ、オリンピック本来の精神にたちもどって、諸々の改革をめざしています。これは、オリンピックが、友好平和の栄光ある火を一層高くかかげて走り継ぐべき絶好のチャンスです。

  これらの点を十分に考慮してわが国のオリンピック委員会をはじめスポーツマン、 スポーツ愛好者たちの賢明な判断に心からの期待をよせるものです。

  ここに、スポーツを愛する者としての私たちが訴えの声をあげました。

     一九八〇年 五月十九日

                       淡谷のり子

                       太田 尭

                       古在由重

                       中野好夫

                       藤原審爾

                       丸岡秀子

 

それぞれに肩書きはついてはいないが、歌手、教育学者、哲学者、英文学者、作家、評論家の六氏の名前が連なっているところにその時代の良心的「知識人・文化人」の有り様が垣間見られ、今となっては貴重な資料といえよう。なお、この「訴え」は日付のとおり、1980年5月19日に古在由重さん自身が日本体育協会(JOCは当時は一委員会であった)に出向き、鈴木祐一事務局長に手渡された。その後、古在さんはノエル・ベーカー卿を偲んで「スポーツと平和を語るつどい」を大島鎌吉、川本信正、中野好夫、関屋綾子等によびかけて開催したが、古在さん亡き後も細々とではあるが受け継がれていった。

2) 影山健・岡崎勝・水田洋編『反オリンピック宣言』風媒社、1981

3)『総合ジャーナリズム研究』(夏季号、1980年7月)の特集「モスクワ五輪問題とマスコミ」の各論文、とくに川本信正氏の「“スポーツと政治”と新聞論調」がくわしいが、朝日・毎日の「批判」的立場に対して、読売・サンケイの「タカ派」的立場はきわだっていた。

 

4) 1980年5月24日の臨時JOC総会における飯沢日本体育協会専務理事の発言。『総会速記録』より。拙論「スポーツと平和教育への覚書」『季刊教育法』1985年冬号参照。

5) 拙論「第42回国民体育大会(海邦国体)における『スポーツと平和』の問題について」『平和運動の思想と組織に関する政治社会学的研究』(1988年3月)74頁。拙論「第42回国民体育大会(海邦国体)における『スポーツと平和』の問題について」『現代スポーツを考える』体育・スポーツ社会学研究7、道和書院、1988年。

6) Victoria de Grazia著、豊下楢彦・高橋進・ 後房雄・森川貞夫訳『柔らかいファシズム』 有斐閣、1989年。

7) 前出(5)の80頁。

8) この点についても若干の問題提起はすでに、拙論「スポーツと平和教育の覚書」において試みている。

9) ③④の二つについては『体育・スポーツ評論』第2号(1987年3月)の巻末資料Ⅰ「スポーツと平和」関係参照。

10) 同上

11) 「鼎談・オリンピックの危機の原因と打開の方向を探る」『スポーツのひろば』1984年8月号。

12)  “Sportler gegen Atomraketen,Sportler fur den Frieden” (Dokumentetation,1983)、

有賀郁敏「核時代のスポーツ運動」『リベルテ5』1984年11月、森川貞夫「第二回平和のための国際スポーツ祭典の成功」『体育科教育』1985年12月号、“hochschul sport"Nr.12,  Dezember 1985など。

13) 寺島善一「平和と国際理解の促進のためのスポーツ」『体育科教育』1987年1月号、上野卓郎「ワルシャワ『スポーツと平和・国際理解・国際セミナー』に参加して」『スポーツのひろば』1987年2,3月号。

14) 前出12)森川貞夫参照。

15)沖縄における数多くの出版・報道については『体育・スポーツ評論』第2号の巻末資料Ⅱ「沖縄国民体育大会関係」参照。

16) 津嘉山勉「沖縄国体をふり返って」『体育・スポーツ評論』第3号、72頁。

17) 「日の丸焼き捨て事件」については当事者である知花昌一氏自身の『焼き捨てられた日の丸』新泉社(1988)、下嶋哲郎『白地も赤く百円ライター 知花昌一 新・非国民事情』社会評論社(1989)、同『沖縄「旗めいわく」裁判記』社会評論社(1994)、高澤秀次『旗焼く島(ムラ)の物語』社会評論社(1988)など参照。

18) この読谷村議会の「要請決議」の全文は、前出、知花昌一著『焼き捨てられた日の丸』の巻末資料一に出ている。

 

19 同前、巻末資料二による。

20)比嘉良彦「『日の丸』そして『放火』『打ち壊し』--沖縄の心を考える--9」『沖縄タイムス』1987年12月9日付。

21) この点については沖縄県読谷村議会「一切の暴力行為を許さない宣言」(1987年12月)の中で次のように述べている。

「わが沖縄県にとって、五〇年に一度しか巡ってこないと言われる今世紀最大のスポーツイベント海邦国体は、とどこおりなく全日程を終了した。

  われわれ読谷村民は、平和の祭典として少年男子ソフトボール競技会を成功させる ために全智全能全力を尽くして立ち上がり、もてるだけの真心をもって歓待し、今、すべての村民の心に成就感と未来への思い出を残している。

  (中略)

  そうした中での開始式における、日の丸焼却事件は、村内外に大きな衝撃を与えた。 このことは遺憾極まる行為であった。

  又、この事件に報復する故をもって、ス-パーへの放火、建造物やチビチリガマ世代を結ぶ平和の像の破壊が行われた事件も蛮行極まるものであり、断じて許せるものではない。

  暴力では民主主義と平和を期待することはできない。われわれ読谷村民は、一切の暴力行為を否定することを明確にし、人間の心と心の触れあいを大事にするとともに、民主主義の立場を堅持し、事の解決に当っては、民主的討論を基本に対応すべきを望むものである。

  (中略)

  われわれは、民主主義と平和を基調として、確信をもって突き進まなければならない。洋々とした未来に雄々しく、明るい読谷村民として、素晴らしい誇りを体いっぱい感じつつ、全国民と共に連帯し、恒久平和をめざす地域づくりのため奮闘することを宣言する。

以上、決議する。

昭和六二年一二月一八日         沖縄県読谷村議会」

(前出、知花、巻末資料三 参照)

22) 1987年12月10日の日本体育協会国体委員会。

23)たとえば、沖縄県労協の「沖縄国体に関する公開質問状」にたいする県側の回答、「先催県でも行われていることであり、沖縄県だけ例外であってはならないと考える」(前出、『体育・スポーツ評論』2号、168頁。

24) Helmuth Westphal,“Internationale olympische Bewegung und Frieden"では、その危険性について「国際試合が勝負をつけられるものであるかぎり、それがヘゲモニー争いに乱用される危険性がつねに存在する」と指摘している(日本における講演要旨より)。

 事実、これまでのオリンピックおよびスポーツの歴史においても「米ソ対決」や中国参加問題をはじめ、いくつかのヘゲモニー争いによる流血の惨事も見られた(前出、藤原および守能、参照)。だが、「冷戦の終焉」「55年体制の崩壊」が問題にされる今日では新たな論点の提起が必要であるが、ここでは差し当たり、田中直樹『日本の政治の構想』(日本経済新聞社、1994年)を参照。

25)しかし、こうした文化・スポーツの独自性の主張が現実の政治や経済とまったく無関係にあるというのではなく、城丸章夫が述べるように、「体育・スポーツが固有の有用性を発揮すること、つまり、体育・スポーツが独自な文化として追求されることによって、実は人生にとってもっともっと有用なものになる、あるいはなるべきである」「体育・スポーツは目先の政治や経済の道具となることは、集団や生活にとって真の利益となるものではない。しかし体育・スポーツの価値を決めるものは、究極的にはその集団であり、その生活である」(城丸章夫『体育と人格形成』青木書店、1980、48~49頁)。

26) 1924(大正13)年は日本スポーツ史上重要な年である。すなわち、この年、文部省は「全国体育デー」を催し、内務省は「第一回明治神宮体育大会」を開催、また政府はパリオリンピック大会に参加する選手団に初めて補助金を下付した。国家レベルでスポーツが政策的に取り上げられたのは、戦場に必要な体力・体位向上だけでなく、スポーツによる「思想対策」がふくまれていた。くわしくは、拙著『スポーツ社会学』青木書店(1980)第二章および南博編『大正文化』勁草書房(1965)、149頁を参照されたい。

27) 城丸前掲書、40頁。

28)ピエール・ド・クーベルタン、カールディーム編・大島鎌吉訳『オリンピックの回想』ベースボール・マガジン社(1976)、29頁。

29)広畑正志「オリンピック・イデーと反オリンピック批判」(伊藤高広・草深直臣・金井淳二編『スポーツの自由と現代』上巻(青木書店、1986)、79頁。

30)川本信正『スポーツの現代史』大修館書 店(1976)、守能信次『国際政治とスポーツ』 プレスギムナスチカ(1982)および前掲書 藤原健固など。

31)前出、拙論「スポーツと平和教育の覚書」なお、この小論は後に加筆訂正の上『体育・スポーツ評論』2号に掲載された。

32)城丸前出、181頁。なお、スポーツと政治の関係について、あるいはスポーツと民主主義について、憲法学者の中村浩爾は慎重な態度をとりつつ、重要な指摘をしている。『都市的人間と民主主義』文理閣、1994年、24頁並びに本書注(15)参照。

33) 前出(31)とは若干整理のしかたがちがっている。

34) 基本的人権の体系におけるスポーツの位置づけおよび内容については拙著『スポーツ社会学』青木書店、1980、第4章、スポ-ツと人権において論じた。

35) 拙論「ユネスコ『体育・スポーツ国際憲章』の成立とその概要」『スポーツ社会学』青木書店、1980年、107頁。

36) 前出(31)、『体育・スポーツ評論』第2号、29~30頁に示したように、オリンピック運動の理解(オリンピック憲章を中心に)、ユネスコ「体育・スポーツ国際憲章」、スポ-ツ史における「戦争と平和」に関するものがさらに精選されていく必要があろう。

 例えば岩波ブックレットの山本典人『日の丸抹消事件を授業する』などが好例であるが、とくに戦前のスポーツがいかに軍国主義に利用され、あるいは軍国主義に深く取り入ったかについて、現在の時点での総括が必要であろう。なお、城丸章夫『体育教育の本質』(明治図書、1960年)には体育・スポーツの民主的伝統や愛国心との関係などがくわしく説かれている。

37) 城丸前出(25)、181頁。なお、この城丸自身の展開の試みはすでに40年以上も前に行われていた(前掲書)。

38) 中村浩爾「戦後の民主的人格形成におけるスポーツの役割」『体育・スポーツ評論』4号(1990)、71頁(川口是編『憲法最前線』法律文化社、1989の第2章の中のものに若干の加筆訂正したものである)。ここでは一例として山崎正和『柔らかい個人主義の誕生--消費社会の美学--』がカルチャーセンターやテニスクラブなどでの生活をとらえていることに注目しながら、同時に佐藤和夫氏の「資本主義に反対する運動は、基本的には資本--賃労働をめぐる直接的な関係に還元され、家族関係、男女関係、その他さまざまな関係における共同のあり方の独自性はあまり追求されなかった」(佐藤和夫「人間の見えない文化」思想と現代、創刊号、1985年)を引用して「革新の側が十分に取り組むことができなかった領域」としてスポーツ分野を挙げている。

 中村氏が問題にしようとしているのは、民主的人格、あるいは変革主体形成におけるスポーツの役割であったのである。

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